2014年9月17日水曜日

【時事】迷走する情報流通と受け手のリテラシー



新聞報道についてが目下のところ世間の主要話題のようだ。

秘密保護法、領土問題、STAP、解釈改憲、閣議決定、朝日報道・・・と、実に話題の変動がめまぐるしい。

個々のトピックについての様々な論評、刻々と変化する情勢のライブ報道を眺めていると「そういうものか」とつい受動的に聞き流してしまいがちだ。

しかしそれら人為的な事象のほとんどには、なんらかの世論誘導的なバイアスがかかっていると考えるべきだろうし、そういう思考グセは持っていた方が理性的判断をしやすい。意図的な「情報操作」はある。ないわけがない。「鵜呑みの病理」にとらわれぬためには多少負荷となっても短絡的に信じぬ心性はあった方が良い。

話を戻すが、「情報操作」というと非常に悪質なものに聞こえるが、世にあふれるあらゆる情報は広告にせよ広報にせよ、何らかの意図を持って流布されているものである。報道されるニュースについても(それらの公平性を担保するべき法の理念や倫理上の合意はあるにせよ)例外ではない。

全ての情報は「それを流布することで益を享受するものがある」というフィルターをかけてみる必要がある。同時にそれらの情報がいかにして流通しだすのかを見極める「眼(視座)」を各人持つ必要がある、というのが本稿の主題である。

2014年8月22日金曜日

【雑記】先鋭化する理想主義にご用心


理想の先鋭化

世の中には理想を追求するあまりに先鋭化して、その理想を他者に押し付けようという心理(人々)がしばしば発生する。

と、こういう話をするとたいてい政治的宗教的思想的な話になりがちだが、今回はそういう話ではなく、もう少し生活に身近なことどもについてである。

2014年8月1日金曜日

【雑記】司馬遼太郎『以下、無用のことながら』から今を見つめて


 

司馬遼太郎の文庫『以下、無用のことながら』を開くと、最初の随想に「新春漫語」という文章がある。

何気ない話に違いないが、その文のおわりに昭和恐慌の話が出てくる。

昭和恐慌について詳述はしないが、この歴史的出来事について司馬が、
私どもにとって負の歴史ながら、思いようによっては、世界や民族や国家とは何かということを考える契機をつくってくれている。マイナスとはいえ、資産である。
と述べているのが印象的だった。

また続けて、

2014年7月9日水曜日

【仕事術】書き出すことで見える問題解決のヒント


1 「書き出す」ことの効能

今ある自分の状況を確かめる手法として「書き出す」という方法があると思います。

苦しいことや嫌なこと、気がかりなこと、やらなければならないこと、できたこと、できていないこと、実現したいこと、避けたいこと、欲しいもの等色々と自分の中にあるトピックを書きだすのです。

そのことで自分の思考のマッピングを行い、自分が考えている諸問題を詳(つまび)らかにし、かつ問題の本質を深化させるというわけですね。昔から多くの人が言っていることです。

何かで行き詰まりを感じていたり、なぜかわからないがモヤモヤしたり、イライラすることがある場合など、自分の内面の整理がうまくできていない時にこそそうした取り組みが効果を発揮します。

2014年1月30日木曜日

【雑記】郵便局との広まる距離感

郵便局というものを本当に使わなくなった。

年に何回行くだろう。

おそらく窓口で郵送物を依頼しなければならない時を除いては年に1、2度行くか行かないかだろう。

年賀はがきの書き損じや余剰分を普通切手(またはハガキ)に交換するときと、お年玉はがきが当選していたとき(所詮切手シートだがこれは毎年コレクションしているので)仕方なく行く。
 

しかしそういう季節物として極めて儀礼的なかかわりにおいてしか、もはや「サービス機関としての郵便局」を利用することはなくなっているということだ。

そして、その郵便局に出向く希少な機会には毎度「なんでこんなに対応が薄鈍いんだろう」とか「サービス業の自覚は皆無なんだなぁ」などとネガティブな印象を持ち帰ることになる。

2014年1月29日水曜日

【仕事術】ハードとソフトで考える職場環境と働く意義


本稿では職場環境におけるハード面とソフト面の関連性について考えてみたいと思います。 私の体験に基づく極めて主観的な雑記のたぐいであります。

■ 業務環境の混乱

私がかつて異動を命じられて赴任した事業所は福祉系大規模事業所の管理部門で、主に経理会計・総務的なこと全般を扱う部署でした。行政色の濃い事業所なので会計年度は期首4月で期末が3月、赴任は年度初めの4月。ちょうど前期の決算時期でした。最も忙しい時期です。

赴任した当時そこは混沌として傍目に見ても何が起きてるの?というほどに業務環境としてはかなり劣悪な状況でした。
物の置き場所は明確ならざる状況で、ファイリングの仕組みも滅茶苦茶、重要な資料や個人情報に類する書類も乱雑に散逸しており、職員はそれぞれ自分が何をやっているのかよくわからないままボロボロになって作業をしているような有りさまでした。


業務はそこかしこで停滞しいろいろの支障が生じていました。業者支払いが抜け落ちていたり、逆に回収がずっと以前から抜け落ちたまま無視されていたり。もはや生産性がどうとか効率性がどうのというレベルではなく、組織の体をなさないほどひどい有様。よく今までこれがおおごとにならずに放って置かれたものだと、目の前の状況よりもそちらのほうに驚いていたのです(行政の外郭組織というものの悪しき例です)。

にも関わらず機械ばかりはなぜか新しいものが導入されているというちぐはぐさ。どんなに高性能のコピー機やPCを導入しても、それらを活かす環境がこれでは到底うまく業務を軌道に乗せることなどできないのは誰の目にも明らかでした。

その時の人事異動には前任者数名を入れ替え、根本的な業務見直しを図ろうという意図があり、私はその「見直しメンバー」の一人として関わることになります。

■ 作業効率とハード面の関係

組織の上層部が問題の重大性に真に向き合う意識があったらこうはならないはずですし、対処の仕方ももっと違ったものであったはずですが、何にせよそこで「なんとかしないとならない」という役についたからにはどれほど絶望的であっても放り出すわけには行きません。自分なりの方向性や問題点を見出しながら作業を進めてゆくことになります。

まず私は最初に自分のデスク周りに必要な道具を持参して揃えてみました。しかし、事務所と自分のデスクのリンクが上手く行かず、相乗効果も出ないため、効率化にはつながりませんでした。前任スタッフたちがどういう思考で劣悪環境を放置していたのかが気になりましたが、そういう人的要因を問う前に、私は以下のことについて考えてみました。

・ 建物の構造
(人の動線を無視した構造、雰囲気、衛生面などの問題)

・ 室内の装飾

(業務に無関係なものが多い、整理が行き届いていないなどの問題)

・ カラーリング

 (業務効率を無視した天井・壁・カーテン色、備品の色合の問題)

・ 什器類の配置

(使う人のための配置になっていない、ものの出し入れに手間取るなどの動線の問題)

・ 道具の問題
(作業を効率的に行うための道具が揃っていない、セレクトが不十分などの問題)

これらは要するにハード面の問題はないかということです。案の定赴任した職場はそういうハード面の問題が山積していました。そこにいる人間は無意識にさまざまな印象を受け、心理的に悪い影響を受けている可能性があります。こうしたことは「目に見えにくい(もしくは見えていても問題と認識できない)問題」になっているということが多く、なかなか改善が難しいものです。 

しかしこのような問題に気づいても改善を提議するのは容易ではありません。一定の地位と権限がある場合を除いては、全体の環境に関わることを個人がどうにか出来る場合は少ないでしょう。仮に出来るとしても周囲から相応のコンセンサスを得る努力がいるでしょう。それは簡単なことではありません(これについては後で詳しく述べます)。

■ ハードとソフトで考える

その様なジレンマのなかで私は全体の構造改革ではなく、ハード(環境全体)とソフト(自デスクの環境と実務システム)をいかに機能的に連動させられるかを考えることにしました。職場のルールや公序良俗に反しない形でそれをやるのです。

私が当初失敗したのは、前任地でうまく機能させていた仕組みをそのまま移植しようとしたからでした。事業所(ハード)が違えば必要となる作業システム(ソフト)も違ってくるのは自明の理ですよね。

それを具体的にどうにかしてゆくには、まず何ができて何ができないのかをしっかりと自分で理解し、取り組むポイントを絞ってゆく必要があります。

■ 3つの取組み

連動性を高めるためにまずは以下の3点に取り組みました。

1 整理整頓する
 自分の役割上必要な道具を極限までシンプルに絞る。

まず何はともあれ「何があって何が足りていないのか」を整理し、モノの在処を把握し、片付ける。これをしないことには始まりません。
またデスク周りは自分の使用する基本的な事務用品、ノートPC、電話などの最低限必要なものだけにし、すでにあったそれ以外の不要(要不要の判然としないものは別途ボックスに分別しておく)なものは一切処分します。
これらの作業はいわば「リセットする(デフォルトに戻す)」ということです。今後業務をすすめるうちに何を足して何を引けばいいのかがわからない状況でスタートするわけですから、できるだけシンプルにしておくことが望ましいと思います。その上で時間をかけて自分が最大パフォーマンスを発揮できる道具と配置を模索してゆくのです。

最も地味で大変な作業ですが、この土台作りをしっかりやっておかないと後から必ずいろいろな問題が起きてきます。

2 レイアウトを決める
 動線と仕組みを意識する。

だいたい立ったり座ったり歩いたりすることで成立するのが事務仕事です。まぁ大半は座っていますが、この単純動作の組み合わせで仕事が進むわけですから、これらをいかにストレスフリーにしてやれるかがポイントです。
デスクとチェアは通路及び壁との距離が適正か、動作上のスペースは不自由なく確保されているか、よく使うものが遠くに置かれていないか、通路に無用な物品を置いていないか、ファイル数と棚の収納力は適正か、など確認できることは幾つもあります。

しかし、仮に不具合がみつかっても「部屋が狭いので改善は難しい」や「他者との兼ね合いで自由に出来ない」ということも出てくるでしょう。
そこであきらめる(不満を抱えながらそれに慣れようとする)事もできますが、しかし、それではパフォーマンスを最大化することはできません。自分の仕事を真に効率的で意義深いものにしたいと願うなら、ぜひもう一歩足を踏み込みたいものです。でも具体的にはどうすればいいのでしょうか。

3 周辺環境の整備
 周囲と協力してハード面の改善と整理を進める

2のことを踏まえ、今一歩踏み込んだ取り組みを考えます。ハード面へのアプローチです。
たとえば共有部のファイルの置き方、収納場所、什器の配置などは、現状どのように使いにくいのか日常的にどうすれば使いやすくなるのかをよく観察します。

その上で共有部は集団で管理するものですから当然個人の意図ばかり反映できないという壁にぶつかるはずです。

その対処方法の一つとしてまずは雑談の場でもいいので、すこしずつ周囲に浸透させてゆくのがよいと思います。「この棚の配置ちょっと使いにくい感じしませんか?」という一言からです。一気にかたをつけるのではなく、自らのプランを人に少しずつ伝える努力をするのです。「右に寄せたほうが取り出しやすいですよね?」。

そこに普遍性があれば必ず協力者が出てきます。そしていずれかの段階で「じゃあやってみようか」という事になるかもしれません。ここで教条的で説教じみた言葉を出すのはご法度です。「こういうのって動線無視した悪いレイアウトですよ」なんて言ってみても始まらないわけです。

あくまで共感性を大事にしながら地道に「語る」ことが肝要です。その繰り返しの中で自分で考えているだけでは出てこないようなアイディアも生まれてくるかもしれません。周囲を巻き込むコミュニケーションはいわば個々人が持つ様々な知見を集合知(全体の利益になる知恵というべきもの)に統合する上で重要な取り組みです。

こうした取り組みはたとえ自分に裁量する権限がなくとも案外侮れないものだと思います。現に私の場合、そういう浸透のさせ方で什器の移動や、新規什器の導入を実現しましたし、ファイリングの仕組みについても秩序の再構築を行うことができました。

勿論これだけで全てが解決するほど単純ではないでしょうが、ひとまず周囲の環境と自分の作業環境がリンクされ、一定の作業効率をあげることができるようになるのではないでしょうか。

■ 組織と個人の切ない関係

私は最終的にこの事業所で体調を崩しました。前半相当の無理を重ねて「改善」に取り組んだためです。冒頭に記したような状況への対応は過酷で、連日徹夜のような状態が続いていたのです。日常業務とは別個にそれをやり切るにはあまりに負荷が大きすぎました。実際事業所としての決算には大きな支障がでて、新年度に前年度の不良部分を繰り越すような情けない結果となりましたし、前任者はその職責を全うしていなかったとして懲戒処分を受ける事態にまで発展しました。

しかしそうした組織運営上の問題はさておくにしても、部署の作業の「やりやすさ」には一定の成果を残すことが出来ました。問題が起きた後、それを隠蔽したりなかったことにするようなことをせず、いかにその事態に真摯に向き合おうとするかが大切なのでしょう。人にはそれぞれ「思惑」があるでしょうけど、及ばずながら私はそれを旨に業務に取り組んだつもりです。

ファイル整理を徹底し、什器を組み換え、収納をし直し、道具の置き場を固定して混乱を防ぐようにしました。誰が見てもわかるように表記を再構成し、閲覧性参照性を高めるように工夫しました。 不要物品は時間を決めて職員全体で協力して一括作業を実施する気運を高め、実際にそれを実行しました。情報伝達のあり方や部署間の連絡と共有方法、さらに非効率で無意味な部分を削って簡略化する取り組みも少しずつ進めることが出来ました。管理職では無いポジションながらアプローチは一定成果を上げることができたように思います。個人としてできることは限界までやったと思います。

■ アプローチのその先

ハード面にアプローチする段を経験してみると、ようやく自分がどんな仕事をしていたのかが見えてくるような気がします。「場所」と「人」の関係が詳(つまび)らかになってくるわけです。
本当は何のためにこの作業をしているのだろうとか、なぜこの仕事は必要なんだろうとか。その時初めて労働とその目的に思いが至ります。そして「効率的」であることと「必要性」が必ずしも比例しないということにも気が付きます。何でもかんでも合理的に端折ってスピードを上げれば良いわけではなく、時として逡巡し、じっくり考え、対話を重ね、省みて立ち止まり後ずさりもする。それからまた少し前進する。そんな風に働く場所と働く者の関係は切ないほどにデリケートなものだと気がつくのです。

正確性や迅速な処理が必要な場面は多いです。事務なんてそもそも情緒的なものを極力排しなければできない側面があります。数字を扱っていれば計算のミスが許されないように、個々の作業はまったく動かし難く機械的なものかもしれません。
でも本当は効率や合理性を云々する前に、いかにそこに関わる人間の心理的な負荷を減らせるかという視点が大切なのではないでしょうか。
つまり「人格と人格の兼ね合いの中で作業をしている」ということを知るんですね。ハード面とソフト面の関連性について考えることはそのことに気がつくための大切な一歩のように思うのです。

やったことは末端の末端、作業者としてのささやかな取り組みに過ぎません。組織運営や業績、 グランドデザインも関係ありません。ただそこにいる人々にとってどうしたら働きやすい環境になるのかという基本的根源的な問題へのアプローチです。前述したように、そのアプローチの結果として自分が仕事をしている意味に気がつけるのかもしれません。左程に業務環境と人間の関係は密接で重要なものであることを実感したのです。


2014年1月22日水曜日

【仕事術】引継書と自分マニュアルの渾然一体化という考え方



本稿では仕事における「事務引継=継承」について書いています。
大まかにポイントを述べると、

・自分の仕事の体験的な事柄を可能な限り記録し、
・それを体系立てておく、
・それをそのまま引継書として、時が来れば次に引き継ぐ

という、働き手としてのスタンスと働きやすさについての言及です。


【雑記】自分の時間を取り戻すためのネットワークと情報の遮断


■ 情報の過剰摂取

私たちは加速度的に早くなる情報化社会の中に生きています。
日々新しく生まれてくるデジタルやネットワークツールに心を奪われますし、それらを使いこなせないと周囲や時代に置いていかれてしまうという焦りを抱き、日々濁流のごとく流れる情報群に目も心も奪われ続けています。

たとえば携帯電話やスマートフォンを朝の出掛けに家に忘れたとしましょう。
とりに戻れる時間があれば良いのですが、その余裕がなければ一日情報端末を持たずにそれを気がかりに過ごすことになります。
不安になり、落ち着かない気分になるかもしれませんね。
実際、そのツールに依存した生活を構築していれば実害もあるかもしれません。

でも一呼吸おいて考えてみると、普段自分がいかに流動化する情報に心奪われて過ごしているのかを自覚することができるかもしれません。
リアルタイムに更新され続ける情報、人々の声、誰かの取り組み、市場や政治の動向、自分へのメッセージ・・・数えればきりがないほどに端末が私たちにもたらす情報の量は多いわけです。
それらを常に獲得していないと不安になってしまう心理状態って普通じゃないのかも、と。

2014年1月21日火曜日

【仕事術】「アイデア」は集合知によって磨かれる

先日の「暗黙知と経験知、そして生きた集合知へ」というエントリーに関連した集合知に対するアプローチ記事をもう一つ上げておきます。

※※※



どんな仕事にも「アイデア」不要なものはありません。

事務仕事などは一見単調なルーティンに見えますが、その作業の方法や組み合わせには色々と考える余地はあるでしょうし、ほかとの連携を見直すことで変わる要素も多いでしょう。

だから「アイデア」はなにも企画屋だけのものではありません。
権限がどうであろうが役割がどうであろうが、あまねく万人にとって「アイデア」を発想するチャンスと必要はあるわけです。

今回は アイデアの共有と集合知のことなどを書いてみたいと思います。

2014年1月17日金曜日

【仕事術】暗黙知と経験知、そして生きた集合知へ


何でも「自分の眼で見えていることが全てだ」と思いがちな私なんですが、実際は眼に見えない様々な知恵で世の中は回転しているものなんですよね。
今回は世の中を構成する「見えざる知性」として暗黙知及び経験知、そして集合知について考察を深めてみたいと思います。


1 暗黙知とは

人間というものは「言葉で表現できないが、それを身体的にはこなせる」とか「なぜわかっているのかがよくわからないがたしかに知っている」というような、言語的に具体化できない知識やノウハウを少なからずその身に宿しています。

例えばあなたが自動車を運転できるのは教習所に通って免許を取得したからに相違ないですが、しかし運転動作をなぜ出来るのかを説明するのは難しいのではないでしょうか。
自然に手足は動く。いちいち脳で手順を検証などしていないはずです。
「なんで運転できるの?」と子どもに問われて「うーん、そう言われてもなぁ」という困惑顔の父親を想像してみてもいいですね。

また、金型職人が見事な手さばきで、ある造形をカンカンとつくり上げるのを見ていて「どうしてそんなに正確に造形できるのですか」と問うてみたところで、職人は「どうしてって、長年の経験と勘だよ」という回答に終始するしかないでしょう。

そういうたしかにそこにある知識やノウハウだけど、それを言語化して説明できない、無理に表現しても結局「そのもの」の説明にならないような知識を暗黙知というんだと思います。

対義語に「形式知(明示知)=文章化、図式化可能な知識」があります。


2 経験に根ざす暗黙知の価値

対象は機械操作でも、何かの作業でもいいですが、どんなに立派なマニュアルがあってもそれを読んだところで一向にそのものの本質がわからないと思ったことはないですか。
手順書よりそこにすでにいる人達の知恵や経験と動作を見ていたほうがよっぽど理解がしやすいということがあるものです。

一方、アップル社のiPodやiPhoneのように、分厚いマニュアル類が付属してないのに直感的に操作ができたという経験をした人も多いと想像します。
知識のない者でもなんとなく触っているうちに物の本質がわかるというのは「つまりこういうことか」と類推出来るだけの暗黙知をその身に宿しているからです(そのことを見越して製品開発を成功させたアップルはやっぱりすごいですね)。

この例では、前者から「他者の暗黙知」、後者から「自身の暗黙知」の作用を見て取れます。
世の中では、様々なところで人々の暗黙知が数珠のように連なって潤滑剤のような役割を果たしているといえそうですね。


3 ナレッジマネジメント

ナレッジマネジメントという経営管理上の用語があります。
ごくごく端的に語ると、個人のもつ暗黙知を形式知(明示知)に変換して組織内で共有化しようとする手法のことです。

人々の持つ様々な経験知(経験したことで得た知識)をどうやって共有し、それを組織活動に活かすかということは多くのリーダーたちの長年の懸案であり続けてきました。

しかし、実状として個人の経験によって培われた経験知や暗黙知をその経験を経ていない集団で共有しあうというのは容易なことではなく、それをマニュアル化することはほとんど不可能です。
だから、そういう取り組みの多くは「体験談」の共有に終始してしまいます。
ビジネスであろうとなかろうと、結局個人が自ら体験し、感じ、導き出した方法論や習慣に勝るものはないということですね。

とはいえ、ノウハウや経験の「共有(シェア)」の重要性や有用性は近年相当に注目されています。
より人間的な「体験の共有」は、人間集団における最も根源的な「生き残りの知恵」であるということなのかもしれません。


4 集合知は「体験の共有」

暗黙知は個人的な知識の蓄積の上に成り立っていますが、古来より人々はそれを何とかして他者に伝播させ、後世に残したいと願ってきました。
それは宗教や武道、学問や芸事として様々な形で我々の周囲に散らばっています。

でも、どんなに体系化された情報に触れてみたところで、人は自らが体験し、知覚し、考えることでしか真に自分の経験知とすることはできないのではないでしょうか。
体系化された情報もしくはマニュアルのようなものはたしかに他者が積み上げた知見のまとめなのですから、学ぶべきことは多いでしょう。

ですが、それはやはり他者の知見でしかなく、自分のものではありません。
それらを情報として消費するだけではほとんど意味がありません。
「情報の共有」のみではなく「体験を共有」することが大切なのです。
「他者の体験」と「自分の体験」をすり合わせることで、相乗的に知見を高めるということの可能性に意識を向けてみます。

人との会話は知的刺激をもたらします。対話の中から自分や相手の暗黙知を拾い上げ、互いに知識をよりよいものへ昇華するプロセスがそこにはあります。
重要なのはそういうものを文字化や形式化することではなく、互いの暗黙知を拾い上げ合って互いに知的な刺激を得ることです。
目には見えませんが、そういう体験的交流が多ければ多いほど人は成長してゆくように思います。

また、集団で物事に取り組む過程で各人の情報をしっかりと共有することで、その集団は集合知(多数の参加者による知識が集積され体系化された知識)を獲得する事ができるはずです。
個人的体験だけでは到底到達し得ないけれど、到達できても相当な時間と労力を要することを、集合知はごく短期的に可能とする力を持っているのです。

ですから私は、冒頭の職人の個人的経験知・暗黙知の価値を認めつつも、それだけに依存せずに発展させた「集合知の有用性」を支持する立場です。

以上、毎日のコミュニケーションで得られる他者の知見に謙虚に耳を傾けることの重要性は伝わったでしょうか?
自分と考えの異なる人や自身の未経験の体験を持った人との交流が大切なのは、まさにその相乗効果を高めるため、自身の経験知を高めるのに有効なのはいうまでもありません。

ご参考になれば幸いです。