2014年1月21日火曜日

【仕事術】「アイデア」は集合知によって磨かれる

先日の「暗黙知と経験知、そして生きた集合知へ」というエントリーに関連した集合知に対するアプローチ記事をもう一つ上げておきます。

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どんな仕事にも「アイデア」不要なものはありません。

事務仕事などは一見単調なルーティンに見えますが、その作業の方法や組み合わせには色々と考える余地はあるでしょうし、ほかとの連携を見直すことで変わる要素も多いでしょう。

だから「アイデア」はなにも企画屋だけのものではありません。
権限がどうであろうが役割がどうであろうが、あまねく万人にとって「アイデア」を発想するチャンスと必要はあるわけです。

今回は アイデアの共有と集合知のことなどを書いてみたいと思います。

■「アイデア」の性質

「アイデア」は抽象的なものです。
いくらそれを欲してもそれ自体は幽霊のようなもので、確かな実体がありません。

だから具体的なものとして店頭で「アイデア2つください」というように物理的に手に入れることは出来ないわけですね。

「アイデア」はそれ単独で自立しようとするものではなく、常に人の思考と対となって存立するものなのです。


■「アイデア」とは「制約」と表裏一体

そもそも「アイデア」が必要とされる状況というのは、現状に様々な不足や問題点があって、しかも多くの「制約」によってがんじがらめである場合です。
「制約」がないもしくは少ないならそれほど問題にはならず、取り立てて「アイデア」が必要にはならないでしょう。

ですが、みなさんも先刻ご承知のとおり、我々が暮らす環境は様々な「制約」と「不満」でいっぱいです。
日本なら土地の制限がシビアですし、資源も乏しいなどの「制約」があります。
個人レベルでは仕事の仕方や時間の使い方、関わる人々への感情など、自分で自由にできないことは山ほどあります。
そのなかで経済活動を行うにしろ生活するにしろ、様々な知恵=「アイデア」が必要でしょう。

現行の「制約」を考慮しつつその中で講じられる方法を模索するということ。
「アイデア」はそのような現状のストレスや不満などの上に必要とされています。


■どうやって「アイデア」を得るか

冒頭で「アイデア」は幽霊のようなものと述べましたが、日頃自分が不足を感じ、あるいは不満や希求心を募らせているときによりひらめき易いように思います。
その色々な不満を解消する方法を自身が思考したときにふわふわとわき出てきます。
そして発想者の思考と結びつくことで「アイデア」は幽霊からやや実体を帯びたものに変容してきます。

これはつまり、発想者がどういう問題を抱え、なにを見、なにを考えているかに比例したものしか生み出されないともいえます。
発想者の思考力以上のものには成り得ないのです。


■独創性と集合知

「アイデア」が独創的であれば、その発想者はそれの発展性や可能性、もしくは将来性とともに評価されることもあると思います。
しかしいくら独創的で可能性に満ちていても、それを他者の思考に伝播させ錬磨を繰り返さなければよいものには成り得ません。

「アイデア」は発端であってそれそのもので単独に存立しうるものではないと書きましたが、発想されてから他者に伝播し、幾人もの思考を経由し、変容と錬磨を繰り返すうちに様々な可能性を生み出してゆくという無限性を秘めたものなのではないでしょうか。
すなわち集合知の恩恵により、洗練されてゆくことの可能性。

いくらよいものであっても個人の思考の中だけで転がしておかず、他者にどんどんシェアしてゆくことが望ましいというわけですね。


■「アイデア」の良し悪し

ところでよい「アイデア」とはどんなものでしょう。
たとえばあなたがデスクワークをしていて、面倒な稟議書をたくさん作成し決裁をとらねばならないことに効率性の観点から疑問を持ったとしましょう。
どうせいつも同じなんだからこんなことやめちゃえば・・・と思う。

だけど、それを稟議により決裁してきたからにはそれなりの理由と意味があるので勝手にやめることはできません。

そこでこんな2つの提案を考えてみました。

A 決裁書類作成に時間をかけるのをやめて口頭採否でいいことにする

B 規則に準ずる必要はあるので、様式を変更して簡易決裁ができるようにする


どちらも「アイデア」です。
でも決定的に異なるのは「制約(この場合は規則)」の存在を考慮しているか否かです。

組織で動いている以上、ルールはそれを守るだけの意味があって作られています。
そしてここが重要ですが、それがいかに無駄多き不条理なものであっても「ルール」であるかぎりはゆえなくそれを回避する事はできません。
それを自在に壊してしまえるなら、集団は集団としての大きな「前提」を失うことになるからです。
そのことを念頭に置いて、上の2択について考察してみましょう。

・Aの場合

日本社会(組織)における決裁は決裁権者の個人印をもって成立する場合がほとんどです。
Aのように口頭では完結しないのが普通です。
これを口頭採否でなんでも決められるようにしたら、責任の所在も事の経緯も全くわからなくなってしまいかねません。
組織の体質にもよりますが、記録を軽視するといろいろの弊害が起きやすくなることだけは間違いありません。
ですからAの提案はそもそも「制約」に対して思考が働いていませんから、可能性を広げる余地は少ないと考えられます。

・Bの場合

Bの提案には可能性を広げる余地があります。
具体的な方法は提案時点では示されていませんが、提案の前提が個人のわがままというより集団の利益に波及したものと思われるため、現状に不満や苦労を感じている多くの人々の賛同を得られる可能性を感じます。
「制約」を考慮しつつ、どうすれば現状を改善することができるか、という知的負荷のもとで考えようとするとき「知」の萌芽を見ることができます。

それが採用されるかどうかはもちろん集団(組織)の思惑がどう働くかわからないのでなんとも言えませんが、すくなくとも有意性があると判断されれば他者の意見が求められ、異なる思考フィルターを通して可能性が模索され始まるかもしれません。


■「アイデア」のシェアが「集合知」の質を上げてゆく

こうした発想が「アイデア」のシェアと錬磨につながってゆきます。
結果が自分の望むものと異なる形になることもあるでしょう。
しかし、それは他者とのかねあいの中で組織が運営されている以上含みおくべきことです。
自分の思うようにしたい、絶対譲れないという思いで「アイデア」を他人に突きつけるのは賢いやり方とはいえません。

「アイデア」は個人で抱え込むものではなく多くの人々とシェアしあうものであり、また、個人の利益のためではなく、できるだけ多くの人々にとって利益となるように配慮されたものであるべきではないでしょうか。
そうすることでようやく個人の「アイデア」は集団の知性との化学反応を起こしてゆきます。
その化学反応を経てこそより上質な「集合知」が形成されてくると思います。

上のような考え方は「旧弊を擁護する」かのように取られてしまうかもしれませんが、面倒でもそういう思考のくぐらせ方をすることが他者理解にも繋がるし「アイデア」の相互補完による創造性豊かな状況を生み出し続けることができるのだと思い、あえて上述の例のもとに考えを書いてみました。

皆さんはどのように感じたでしょうか。