2014年1月22日水曜日

【雑記】自分の時間を取り戻すためのネットワークと情報の遮断


■ 情報の過剰摂取

私たちは加速度的に早くなる情報化社会の中に生きています。
日々新しく生まれてくるデジタルやネットワークツールに心を奪われますし、それらを使いこなせないと周囲や時代に置いていかれてしまうという焦りを抱き、日々濁流のごとく流れる情報群に目も心も奪われ続けています。

たとえば携帯電話やスマートフォンを朝の出掛けに家に忘れたとしましょう。
とりに戻れる時間があれば良いのですが、その余裕がなければ一日情報端末を持たずにそれを気がかりに過ごすことになります。
不安になり、落ち着かない気分になるかもしれませんね。
実際、そのツールに依存した生活を構築していれば実害もあるかもしれません。

でも一呼吸おいて考えてみると、普段自分がいかに流動化する情報に心奪われて過ごしているのかを自覚することができるかもしれません。
リアルタイムに更新され続ける情報、人々の声、誰かの取り組み、市場や政治の動向、自分へのメッセージ・・・数えればきりがないほどに端末が私たちにもたらす情報の量は多いわけです。
それらを常に獲得していないと不安になってしまう心理状態って普通じゃないのかも、と。

■ 情報と味覚の関係

よくよく考えてみれば、日々過剰なまでに流入する情報が自分にとってどれほどのメリットをもたらすのでしょう。
単に刺激を常に求めて依存しているだけかもしれない。

例えば刺激物(唐辛子や炭酸飲料など)を毎日大量に摂取していればその刺激に次第に慣れ、もっと強い刺激を求めるようになるという例を思い起こせばわかりやすいかもしれません。
それを続けていれば当然のことながら味覚が破壊され、味を感じる感性がにぶり、しかも脳内の反応に何らかの影響が生じるかもしれません。

あくまで度を越した場合の話ではありますが、それをやめて正常な味覚を取り戻した時に「淡い味」のよさを感じられるようになる。
そこではじめて本当の味」がなんであるかを知るというような悟りの境地のようなものがあるとすればどうでしょう。
それを情報に当てはめても同じようなことがいえるのではないかと思うのです。

冷静に考えてみれば、ネットワークにつながることができない時にこそ人間は最も感性が研ぎすまされ、周囲の状況に敏感になるような気がします。
私自身はそういう感覚になることが多いのです。
いつも刺激的な情報を求めて端末に目を向けてばかりでは、周囲の些細な事象への感動が得られなくなってしまうことに不安を感じているからなのかもしれません。

■ 情報を遮断することで得られるメリット

「SNS疲れ」などという言葉が流行する時代です。
時には情報やネットワークから自分を遮断し、静かに自分と向き合う時間を持つことに意識を向けても良いのかもしれません。

また「ネットで検索すればなんでも分かる」というのも一面では当たっているかもしれませんが、一面では誤っているでしょう。
情報は自分の体験とリンクして行動と相乗した時にこそ最大の価値を持ちます。
行動なきところにまた有益な情報もありません。

ですから、ネットに接続して情報を追うばかりの時間を「体験」に当て込むことで、接続時間を費やすだけでは得られない多くの価値ある「時間」の獲得を目指すべきだと考えます。

ぜひ、遮断の時間を意図的に作ってみてはいかがでしょうか。
きっと「気付き」と「メリット」があると思います。