2014年1月17日金曜日

【仕事術】暗黙知と経験知、そして生きた集合知へ


何でも「自分の眼で見えていることが全てだ」と思いがちな私なんですが、実際は眼に見えない様々な知恵で世の中は回転しているものなんですよね。
今回は世の中を構成する「見えざる知性」として暗黙知及び経験知、そして集合知について考察を深めてみたいと思います。


1 暗黙知とは

人間というものは「言葉で表現できないが、それを身体的にはこなせる」とか「なぜわかっているのかがよくわからないがたしかに知っている」というような、言語的に具体化できない知識やノウハウを少なからずその身に宿しています。

例えばあなたが自動車を運転できるのは教習所に通って免許を取得したからに相違ないですが、しかし運転動作をなぜ出来るのかを説明するのは難しいのではないでしょうか。
自然に手足は動く。いちいち脳で手順を検証などしていないはずです。
「なんで運転できるの?」と子どもに問われて「うーん、そう言われてもなぁ」という困惑顔の父親を想像してみてもいいですね。

また、金型職人が見事な手さばきで、ある造形をカンカンとつくり上げるのを見ていて「どうしてそんなに正確に造形できるのですか」と問うてみたところで、職人は「どうしてって、長年の経験と勘だよ」という回答に終始するしかないでしょう。

そういうたしかにそこにある知識やノウハウだけど、それを言語化して説明できない、無理に表現しても結局「そのもの」の説明にならないような知識を暗黙知というんだと思います。

対義語に「形式知(明示知)=文章化、図式化可能な知識」があります。


2 経験に根ざす暗黙知の価値

対象は機械操作でも、何かの作業でもいいですが、どんなに立派なマニュアルがあってもそれを読んだところで一向にそのものの本質がわからないと思ったことはないですか。
手順書よりそこにすでにいる人達の知恵や経験と動作を見ていたほうがよっぽど理解がしやすいということがあるものです。

一方、アップル社のiPodやiPhoneのように、分厚いマニュアル類が付属してないのに直感的に操作ができたという経験をした人も多いと想像します。
知識のない者でもなんとなく触っているうちに物の本質がわかるというのは「つまりこういうことか」と類推出来るだけの暗黙知をその身に宿しているからです(そのことを見越して製品開発を成功させたアップルはやっぱりすごいですね)。

この例では、前者から「他者の暗黙知」、後者から「自身の暗黙知」の作用を見て取れます。
世の中では、様々なところで人々の暗黙知が数珠のように連なって潤滑剤のような役割を果たしているといえそうですね。


3 ナレッジマネジメント

ナレッジマネジメントという経営管理上の用語があります。
ごくごく端的に語ると、個人のもつ暗黙知を形式知(明示知)に変換して組織内で共有化しようとする手法のことです。

人々の持つ様々な経験知(経験したことで得た知識)をどうやって共有し、それを組織活動に活かすかということは多くのリーダーたちの長年の懸案であり続けてきました。

しかし、実状として個人の経験によって培われた経験知や暗黙知をその経験を経ていない集団で共有しあうというのは容易なことではなく、それをマニュアル化することはほとんど不可能です。
だから、そういう取り組みの多くは「体験談」の共有に終始してしまいます。
ビジネスであろうとなかろうと、結局個人が自ら体験し、感じ、導き出した方法論や習慣に勝るものはないということですね。

とはいえ、ノウハウや経験の「共有(シェア)」の重要性や有用性は近年相当に注目されています。
より人間的な「体験の共有」は、人間集団における最も根源的な「生き残りの知恵」であるということなのかもしれません。


4 集合知は「体験の共有」

暗黙知は個人的な知識の蓄積の上に成り立っていますが、古来より人々はそれを何とかして他者に伝播させ、後世に残したいと願ってきました。
それは宗教や武道、学問や芸事として様々な形で我々の周囲に散らばっています。

でも、どんなに体系化された情報に触れてみたところで、人は自らが体験し、知覚し、考えることでしか真に自分の経験知とすることはできないのではないでしょうか。
体系化された情報もしくはマニュアルのようなものはたしかに他者が積み上げた知見のまとめなのですから、学ぶべきことは多いでしょう。

ですが、それはやはり他者の知見でしかなく、自分のものではありません。
それらを情報として消費するだけではほとんど意味がありません。
「情報の共有」のみではなく「体験を共有」することが大切なのです。
「他者の体験」と「自分の体験」をすり合わせることで、相乗的に知見を高めるということの可能性に意識を向けてみます。

人との会話は知的刺激をもたらします。対話の中から自分や相手の暗黙知を拾い上げ、互いに知識をよりよいものへ昇華するプロセスがそこにはあります。
重要なのはそういうものを文字化や形式化することではなく、互いの暗黙知を拾い上げ合って互いに知的な刺激を得ることです。
目には見えませんが、そういう体験的交流が多ければ多いほど人は成長してゆくように思います。

また、集団で物事に取り組む過程で各人の情報をしっかりと共有することで、その集団は集合知(多数の参加者による知識が集積され体系化された知識)を獲得する事ができるはずです。
個人的体験だけでは到底到達し得ないけれど、到達できても相当な時間と労力を要することを、集合知はごく短期的に可能とする力を持っているのです。

ですから私は、冒頭の職人の個人的経験知・暗黙知の価値を認めつつも、それだけに依存せずに発展させた「集合知の有用性」を支持する立場です。

以上、毎日のコミュニケーションで得られる他者の知見に謙虚に耳を傾けることの重要性は伝わったでしょうか?
自分と考えの異なる人や自身の未経験の体験を持った人との交流が大切なのは、まさにその相乗効果を高めるため、自身の経験知を高めるのに有効なのはいうまでもありません。

ご参考になれば幸いです。