2013年11月27日水曜日

【思索】今が全てではない「学び」の「その先」



若い時、特に大学生あたりの時には「自分は自由でなんでもできる」という「錯覚」を抱きがちだが、実際は言うほどのことはできないしその能力も備わっていない。

前提としてその人間が「置かれた境遇」に依ることは確かだが、多くの場合大したことはできない。

しかしそれでも頓着なく突っ走ってヒックリがえったり頭殴られたりしてガツンと痛い目に遭えるのもこの頃。

そうしてかいた恥がだいたいその後の人生の実感としての教訓だったり人間観になったりする。

「生まれ」とか「育ち」とは違う「実体験」としての人間性の形成過程。

**

他人様に迷惑をかけてまで自己を押し通す我執を発露するのは通常「悪いこと」だ。

しかし、他人様が何を「悪いこと」とみなすのかというのは(「法に触れること」を除いては)体験のうちにしか答えは見いだせない。

周りくどいようだが「失敗はすべきこと」という当たり前の論理を述べたいのではない。

失敗などだれでも避けたいと思っている。
失敗が学びに昇華するのはほとんど随分後になってからだ。
わざわざ学びだからといって進んで失敗したい人間などいない。

重要な事は「今が全てではない」という人生の経過としての「今」を認識することだ。

今の若いその時も当然時を経て失われてゆく。

そのことは誰もに否応なく訪れる。
それを思って保守的になるのは望むところではないが、常に「その先」を思って生きるということを私は特に大切に思っている。

「後先を考えないのが若いということだ」

そういうセリフはどこでとなく繰り返し聴いたような気がするが、そうではあってもやはり心の何処かで「その先の未来」、もっと言えば「自分がその先で誰か(なにか)に影響をもたらすはずの未来」について、いかに未熟であろうとも想像できる余地はあると思う。

それが実際に合っているかどうかは関係がない。想像することに意味がある。

**

若く未熟で愚かしいのが若者の特質であって、それを恥じたり隠す必要などない。

でも刹那に生き、後先を無視して破滅したたのでは元も子もない。

植物や小動物を育てるのを体験したこどものころのことをおもえば、それが一朝一夕で叶わず、時間をかけた先にようやく一定の実りを得られた感覚を覚えていないだろうか。

自分自身という一人の人間もそうであるということを今一度思い起こしてみたいと思うのである。