2014年8月22日金曜日

【雑記】先鋭化する理想主義にご用心


理想の先鋭化

世の中には理想を追求するあまりに先鋭化して、その理想を他者に押し付けようという心理(人々)がしばしば発生する。

と、こういう話をするとたいてい政治的宗教的思想的な話になりがちだが、今回はそういう話ではなく、もう少し生活に身近なことどもについてである。

例えば世の中では、グローバル資本主義の肥大に反して、小規模コミニュティが見直されるという機運が一定の高まりを見せており、その中には「古き良き伝統の再興」や「自然とともに」といったような理想主義的理念を掲げるものも少なくない。

そういう理念を掲げて自らの人生を理想化してゆくことに僕自身なんらの異論はない。それぞれがそれぞれの人生のうちに信ずべきことを見出し、有意義に幸福を追求してゆく社会であれば良いと思っている。

だが、なかには冒頭述べたように、自らのうちに見出した「ただしさ」を他者に押し付け、その「ただしさ」が普遍であるかのようにふるまう人々というのが出てくるのである。

これが大変に面倒なのである。

それぞれがそれぞれに良いと思うことをやっているうちはいい。共感者が集まってそれなりのコミュニティを形成するのも良い。
しかし、それに共感しないもの、参加しないものを否定したり、排除するような気分が生じはじめると、とたんにその理想は「先鋭化」しだす。
「ただしさ」にとりつかれたものはそれまでの自らの人的リソースを割いて来たコトやモノを神聖化しだし、絶対のものとして盲目的になりがちなのである。

健康も心地の良さも受忍限度も人それぞれでは?

たとえば食べ物。
オーガニックがどうとか、地産地消がどうと、ある種のブームとともに喧伝された過度な健康志向というものがあるが、これを選択しない者がもし侮蔑されるとしたらこれはこれで怖い。
一方、農薬散布を地域で強要しあって個々人の農法の自由を認めない原理主義的動向(経済合理性)なども、前例とは異なる次元でその盲目性を表出させる事例である。

それぞれには「健康志向」「安全性」「合理性」などという「大義名分」があるわけで、 個々がそれを選択的に信じ、生活のうちに採択することはそれで良いわけである。

直に暗に「強要」される「理想」

問題は、盲目になって「異なる価値観を持つ人」にも自らの価値基準で「強要」もしくは「断る余地を与えない」ようになることである。
しかも「強要」の仕方には二種類ある。
ひとつは文字通り直に「強要」すること。
もう一つは「暗に」、あるいはいつの間にか「強要」しているということ。

前者は意図が明確で、受ける側も「賛」であれ「否」であれ意思表示しやすいように感じられるが、後者だとそうもいかない。いつの間にか浸透させられ、知らずに(もっと言えば洗脳的に)「強要」されているかもしれないだけにその分深刻である。

子育てや教育などにもその芽はいくらでもある。

幸福の追求

僕らの生きている社会には「幸福追求権」というものが認められている。
しかし、この「幸福」に統一された基準なんてものはない。
「幸福」をめぐる問題は常に議論されている。

そしてこの議論の重要なポイントとして「他者の権利を不当に犯してはならない」という限定条件がかけられている。
直接間接問わず、また意図的偶発的問わず、個人の営みが他者に影響しあうのが人間社会であるが、やっぱりそれぞれの快・不快は考慮しあおうよ、という前提条件である。

ことさらこういう約束ごとを言わねばならぬほどに「人々の社会」というのは度し難いともいえるわけだ。
「幸福」を追求することはやぶさかではないが、それが他人の幸福追求に抵触する場合どうするか。 直に暗に「ただしさの強要」があとを絶たない。

「強要」される理想主義やただしさがそこかしこに渦巻く社会を思うとうんざりもするが、しかし、人間の社会というのはもう想像が及ぶよりもずっと以前からそうなんだろうと思う。歴史を学んでなくてもそれくらいはなんとなく。

だから「解決」なんてできやしない。
ただ「そういうことってあるのだ」と知っておくことくらいはできる、と思うのだ。
知ってるのと知らないのじゃずいぶん違うものだと思うし、ふるまい方も選択の仕方もバリエーションが出てくるだろう。
消極的だが、そのくらいでないと、前述のとおり「理想が先鋭化」する病理を抱えているのが僕ら人間というものだから。

そんなわけで、結局はのらりくらりが一番いいのではないかと思っている。