2014年9月17日水曜日

【時事】迷走する情報流通と受け手のリテラシー



新聞報道についてが目下のところ世間の主要話題のようだ。

秘密保護法、領土問題、STAP、解釈改憲、閣議決定、朝日報道・・・と、実に話題の変動がめまぐるしい。

個々のトピックについての様々な論評、刻々と変化する情勢のライブ報道を眺めていると「そういうものか」とつい受動的に聞き流してしまいがちだ。

しかしそれら人為的な事象のほとんどには、なんらかの世論誘導的なバイアスがかかっていると考えるべきだろうし、そういう思考グセは持っていた方が理性的判断をしやすい。意図的な「情報操作」はある。ないわけがない。「鵜呑みの病理」にとらわれぬためには多少負荷となっても短絡的に信じぬ心性はあった方が良い。

話を戻すが、「情報操作」というと非常に悪質なものに聞こえるが、世にあふれるあらゆる情報は広告にせよ広報にせよ、何らかの意図を持って流布されているものである。報道されるニュースについても(それらの公平性を担保するべき法の理念や倫理上の合意はあるにせよ)例外ではない。

全ての情報は「それを流布することで益を享受するものがある」というフィルターをかけてみる必要がある。同時にそれらの情報がいかにして流通しだすのかを見極める「眼(視座)」を各人持つ必要がある、というのが本稿の主題である。

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今般の「朝日」関連報道では、捏造や見切り掲載、誤判断などについてあちこちから非難が噴出し、執拗な追求がなされている。

それらの状況に否を唱えたいのではない。もちろんそれらが「悪いこと」なのなら謝って当たり前だ。
過ちは正されてしかるべきであり、ことの筋目はそれで良いはずである。
だが少し冷静に眺めてみると、違和すなわち「変な感じ」を感じずにはいられないのである。以下そのことを述べたい。

上記の不健全な報道姿勢を真に正すというのなら、特定新聞社を端緒にするにせよ、報道業界全般についての健全化に報道も世論も動いていなければ不自然である。
「報道の不健全さ」は「朝日」だけの問題ではないからである。
他紙(他誌)に清廉であり誤報のないことを確信している人があるとすればよほどに「おめでたい」。人が紡ぐものであるかぎり、どの新聞社であれTV局であれ、多かれ少なかれ何らかの誤謬というものがあるはずである。

しかし私は寡聞にして全業界的な「健全化」への公正な取り組みの機運が高まっているという話を聞かない。行われているのは何度も繰り返し重箱の隅を突くようにあれもこれもと「謝罪」を繰り返させて「朝日」の「悪さ」を強調することであり、さらには「謝罪」の 濫発誘導でその意義を薄め、うんざり感を抱かされた民衆に「もうキリがないから廃刊してしまえよ」と自発的に考えさようという作為さえ感じる。

こうしてみると「朝日」に対する他紙や権力者らの狙いは、「謝罪」の請願でも「報道の健全化」でもなく、「権力への抵抗勢力の排除」 のためのネガキャンにあるようにしかみえない。
そしてこのような過度に権力による意識誘導、報道業界の多勢に無勢が発露している状況を鑑みるには、すでに「朝日新聞」という特定新聞報道の過ちが論点ではなくなっているということを発見するのである。

ここで一応断っておくが、私はいかなる新聞にも贔屓をしないし、偏向して特定の思想的政治的信条も有さない。だいたい紙媒体としての新聞購読さえしていない。

その上で私がここで言いたいのは「何が真実であるか」や「どう解決したらよいか」もしくは「誰が何のために偏向的なバイアスをかけているか」という各論的専門家的そして陰謀論的な問題についてではなく、むしろ何も知らない、どんな専門家でもない「パンピー」であるところの私たちが「いかに情報と向き合えばよいのか」についてなのである。

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冒頭述べたように我々を取り巻くあらゆる情報には多かれ少なかれ、程度問題ではあるけれど、何らかのバイアスがかかっている。

それが行き過ぎれば「結論ありき」の報道や誘導的情報拡散という病理に行き着く。

もはや新聞がテレビがああ言っていたこう言っていたというような表層的な語りで「報道」をいじくってみても全くつまらない。

むしろ毎日膨大無数に流通する玉石混淆の「情報」の中からいかに背後に隠れた「意図」を読み解けるかという個々人の経験知や洞察力にこそ重要性がシフトしている。

つまり、

「どれだけ多くを知っているか」

ではなく、

「どれだけ深く読み解けるか」

なわけである。量など問題にならない。

よく「一般教養」と言われる。

試験で明示される「時事問題」の知識全般を指してそう言われたが、新聞テレビ報道や各種ニュースを追いかけて得られる「今話題のトピック」を網羅していることがもしも「教養」だというのなら、今やそんなものはなんの意味もなさない。

個々人が物事に対して独自のフィルタリングをせずにどんな批評性も抱かないというのなら、そこに他者と合意形成するための知性の萌芽は得られず、合意せずに排除や断定が横行するとすれば真に教養など育まれないといわねばならないのである。

ものを見る目を養うには、

・バイアスのかかる事象の背景を探る視座をもつこと

・善悪二元論でなく多角的にことの筋目をたどる冷静さを持つこと

・他者との合意点を見出す努力を常に念頭すること


など、情報と接する際の作法として身につけておきたいと思う。これには根気がいるが重要だ。

情報、視座、教養などについて乱雑に考察してきたが、最後に連関する重要な概念として、「自由」について付け加えておきたい。

「言論の自由」や「思想の自由」が真に社会で健全に機能するには、その「自由」が他者の権利や自由をも保証した上でなければ有効に機能しないということを我々は知るべきである。

ある側面から照射された光線に基づいて「悪」と断定してそれを排除するような志向性の上に「自由」や「権利」は機能しないのである。

そのことを踏まえた上で情報と接することを忘れてはいけない。

以上、日々情報と接する際に配慮しておきたい基本的なことどもを書いた。