2017年1月4日水曜日

【読書】阿川弘之『米内光政』


過去の読了所感を掲載。2004年当時。

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 阿川弘之『米内光政』の再読を進めている。
 前回読んだのが2000年だから4年前になる。あの頃の感覚とまた違った味わいを感じながら読んでいるが、感じ入る部分はやはり同じような箇所だと気付く。

 米内の事績をたどる事は終戦の経過を海軍側からたどる上で重要だ。
 ところでこの小説では実に多くの登場人物が登場する。ゆえにそれぞれの人物を把握するだけで気が滅入ってしまう。そういえば4年前も読了のみを目標にして、概略を理解できたかできないか程度の所感しか残していない。

 しかし今回読んでいて気付くのは、阿川弘之の好みや思考、あるいは引用文献には相当の“クセ”があることである。彼の独特の文体はもとより、引用地獄と呼べるほどに他書の引用が多いのも特徴だ。手繰った本が繰り返し引用や引き合いに出てきて、なんとなくそれらの本の焼き直しのような感がしなくもない。

 それになんとなくメリハリに欠けるようでもある。目次がないのでこの長編の区切り目がつかみにくい。登場人物の紹介の仕方も独特なので、海軍や太平洋戦争についてのある程度の知識を持ち合わせないと相関関係がつかみにくい。要するに読みにくいのだ。
とはいえ、まだ前半を読み進めた程度なので全部読み終えたあとの感想はまた後ほど書いてみたい。

2004年03月14日
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 阿川弘之『米内光政』2度目の読了。
 終戦工作から終戦、そして戦後の彼の足跡、そして占領軍による戦犯指名、東京裁判。米内の死。
 この後半の哀愁に満ちた、しかし淡々とした筆調に筆者の思いがにじんでいる。前項に「引用地獄」と書いたが、読み終えてその否定意識に訂正をくわえる気になった。米内は、作中でも何度も言われるが、寡黙でその心中を読み取りにくい人物であったという。こういう人を小説の題材として描くにはどうしても周囲で接した人々の証言が重要な鍵となってくる。それなればこそと、作者が多くの人々に証言を得、また残された文献を丹念に調べ上げ、多くの米内像を総合してつむぎあげたのがこの作品だといえる。

 米内の晩年は多くの彼の信奉者によってより美しく彩られていたように感じる。むろんのこと、米内自信の人間的魅力のなせる技であるが、その人柄に惹かれる人々にも、一種の人間的魅力が彼によって引き出されていたのではないかと感じるのである。

 米内が磐手艦長時代、正木生虎という人が人生に悩んでいたのに対し、彼の作文にメモを付して返したというエピソードが載っている。そのとき、米内は彼の話をよく聴き、話す方の正木もすべてを包み込むような米内の態度に洗いざらい自分の思いを語ったという。一度にすべてを解決せずともいいではないか、目の前にあることを一つ一つ解決してゆけばおのずと答えも見えてくる。と、米内は言う。あの当時の軍人であるにもかかわらず、この寛容性を終生持続しえたところに米内の本質がある。それは難しい時期の海軍大臣、総理大臣、そして戦争の極端な貧窮と苦しみの中でも損なわれない点に人間米内光政の強靭な精神を感じる事ができるのである。
 
 米内の読書術についても語られる。
 「どんな本でも自分の頭で読むようにし給え」と小説の中の米内は言う。彼が海大受検の相談にきた学生に「これを読んどくといい」と渡した教範には、彼の字で細密に本の内容に対する批判、感想が書き添えてあったという。教範を一字一句諳んじて絶対のものとしなければならないというような時代、この思想は至高である。

 また気に入った本があれば必ず3度は読むという。
 「第一読は恰(あたか)も飢えたるものの食を貪る様な早さで、第二読は相当咀嚼しつつ、慢々的に読了(中略)、第三読でははじめて本当の人間味を味わい得る様な気が—」
という一文が、ある手紙に残されている。

 さらに、甥に読書法を語ったときは「書物はその時々で受ける感じが違うから、一度読んだ本を何年かして読み返すと、また別の味わいがある。本というものは繰り返し読むもんじゃないかね。僕は一冊の本が気に入れば少なくとも三遍は読むよ」という。
 閑職にあったときも、職を離れていた時も、彼はこういう読書術によって高い識見と、偏らない判断力を養っていたのである。私欲を持たず、ただ大勢と本質のみを見て、どんな折にも堂々としていられた背景の一部である。

 昭和23年4月20日午後9時45分死去。享年68歳。軽い脳溢血に肺炎を併発したのが直接の死因という。その他に慢性の腎炎、帯状疱疹(おびじょうほうしん)を患っており、体中が病に侵されていた。また極度にやつれていたという。
 米内の墓所は岩手県盛岡市円光寺。米内家菩提寺である。山門を入って天然記念物の夫婦かつらを左手にゆくと米内家墓所。その右に光政の墓があり、墓石の文字は緒方竹虎の筆による。

 また彼の銅像は盛岡八幡宮境内にある。昭和35年10月25日除幕。この前後、畑俊六(元陸軍大将)がこの境内の草むしりをしていたのを見た人があるという。このエピソードが、最後に、より米内光政の人生の彩りをくっきりさせるものとして印象的である。

 畑は米内が首相時の陸軍大臣であり、この内閣をつぶした主犯格の人物であった。東京裁判でA級戦犯となったが、米内は畑に義理があるとして病身を押して証人として法廷に立つ。そして畑が倒閣を行った事実はないと発言。当時の新聞を持ち出されて発言の矛盾を問いただされるも、とぼけとおして畑を弁護した。
 しかし、畑は昭和29年の仮出所の折、人に「何だ、米内は、法廷であんな馬鹿な態度を見せて」と人に語ったという。それを聞いた人は米内の苦心が畑に通じなかった事を心外に思ったという。

 だが、出所した81歳の畑が、昭和35年、米内銅像の除幕式で黙々と草むしりしていたというのは、なにやら深い哀切の念を持って眺めざるを得ない光景である。その心中はついには語られないが、米内への感情に変化があったことの証として、救いのエピソードとして捉えたいと思わされる。

 歴史上の人物たちの心情や行為の意図は、後世の我々には正確に把握することなどほとんど不可能だ。解釈をそれぞれ重ねるよりほかはない。だからこういう伝聞などもそれがどういう意味を持つのかと考えるのも読み手一人ひとりに委ねられているのだろう。
 いわゆる伝記モノを読むというのは、その人物とそれに関わった多くの人々に「主観的」に思い馳せるというところに面白みがあるのである。

2004年03月16日
阿川弘之 著『米内光政』(新潮文庫)

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