2017年2月18日土曜日

【思索】敗戦、そして憲法がもたらした未来としての今




敗戦、そして憲法がもたらした未来としての今

日本が世界史的にも稀有な憲法を持つに至った経緯と本質について考えている。

にわかに「連合国側の押し付け憲法だったのだから自主憲法の制定が必要だ」とする声が強くなってきている昨今だが、そのことへの違和感がどうしても拭えない。

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この国は日本国憲法と様々な現実との齟齬を内在したまま戦後を歩んできた。

それは事実だ。

しかしそのことについて「占領側による押し付けだから変えねばならない」というロジックで解釈するのはいかにも無理筋だろう。

もし本気で悪意に満ちた「押し付け」でしかなかったというのなら、そういう考え方にこそ恣意的な「悪意の介在」があると疑っていい。

占領された敗戦国へ、勝者側からの内政干渉がなされないわけがない。
それがない占領統治というものが歴史上どこの世界にあったというのか。
そうならざるを得なかった経緯を無視した暴論である。

また、その戦争に至った経緯についてもそれが必然であったというようないかにも恣意的な解釈があるようだが、いったい暴力的解決を情緒的刹那的に行うことでどのような事態に立ち至ったかということを思えば、後世、そういう決断になったことを肯定できる道理などないだろう。

国防を語る時、大正昭和における大日本帝国のそれは拙劣であった。

兵站を軽視し、情緒的で無思考でただただ事務的で机上論的で恣意的なものであったということを無視して賛美することなどできようはずもない。

局所的各論的に「良い面もあった」などいう見方は百害あって一利なしだ。

国土は焼け野原になり膨大な死傷者と戦災による無数の罹災者を生んだということを肯定できる材料などあるわけがない。

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敗戦後、日本は占領国の肝いりで現行憲法を「国民主権」の名のもとに手に入れた。
いろいろな感情や解釈や検証はあるだろう。

だがもしこのことが相手側の悪意と恐怖のみに依っていたというのなら、今自分なんかここで息などしてないと思うのだ。

「押し付け」などと言えた義理かということを捨ておいてモノを言うこと自体が傲慢である。

1945年以降、占領下の日本でも自主憲法制定の機運はあったと聞く。
だが、負けた国が主観的に出来ることなどたかが知れている。

押し付け憲法は無効だから自主憲法を意識的に遡って取り戻すというような発想は、およそ310万人を死なせたことの経緯とそのことの結果としての「今」であることを認識していない点で尋常ではない。

「歴史修正主義」というものが曲解に曲解を重ねた末のトンデモ屁理屈である所以である。

国家権力が暴走すれば民は死ぬ。

その暴力的作用を近代戦争を通じて嫌というほど思い知らされたのだ。

そして歴史の奇妙な巡り合わせにより「超お節介主義的世界戦略」がこの国に現行憲法をもたらすに至る。

どういうものであっても受け入れざるを得なかった。

ただ、今ここで息をして思考して権利や自由やワガママを語ることが(例え箱庭の上であろうと)できている現実を思うと、「おせっかい」の結果、ファシズムや軍部独裁下の抑圧的体制にならなかったということ、自分たちが幸福の追求をまがりなりにも今もまだ許されていることに感謝せずにはおれないわけである。

もしそれが損なわれ怯えと敵愾心の社会に向かうというのなら、それに警戒するのは至極当然な話なのだ。

人間の生き様に「正解」などないように、国家が目指す道筋にも「絶対」などありえない。

国家が「正しさ」を語り(「騙り」のほうが適当か)だしたら警戒せねばならぬのが歴史の教訓の最たるものだといえる。

国体だの愛国だのといって、個人を否定し、感情をねじ伏せ、ひとりびとりというものを踏みにじるような、そういう社会を理想的だなどと到底思うことなどできぬ。

どんな理屈をつけられても私は嫌だ。

固有名詞を持つ「私」は、ちゃんと自分で考えて喜びや幸福を得たい。

「大義」とやらのために犠牲になるのはまっぴらごめんだ。