2019年9月9日月曜日

【思索】エゴイズム(アーカイブス)

2004年12月2日に記している過去記事のアーカイブスを上げる。
今はもうすでにWEB上に存在しないBlogで当時書いた記事の掘り起こしである。
内田樹さんの【「週刊ポスト」問題について】を読んでいてふと思い出したのだった。



ATMを利用しようと車を脇に止めた。
2台しかない機械の一方はすでに利用者がある。
もう一台があいている。
向かって歩いてゆこうとすると、後ろからまた車がとまり、中年男性がそそくさと僕を追い抜いた。
そして空いていたもう一台を気兼ねすることなく占拠した。

一瞬腹が立った。
僕が利用しようとそこに向かっていることは明らかにわかること。
入り口まで距離にして2メートルもなかった。
彼はつまり人を無視して己を優先しているわけである。
でもすぐに怒りを収め、気分を取り直した。
その程度のつまらぬことで人に食って掛かるようなことはしない。
だが、空くのを待つ間に日ごろの癖で、このことについて軽く思索する。

これはつまりエゴなのだ。ごくごく些細なことだが、他者を眼中に置かぬ、人の醜さなのだ。
このエゴは世が平和的であればこの程度のことで済む。
しかし、いったん世の秩序が崩壊すればどうだ。
災害・戦争などの世情不安定の折には、この些細なエゴイズムはどのような形になって表れる?
思いいたしてみればいろいろとおぞましい光景が眼に浮かぶだろう。

人は普段容易に入手できるものが何かの事情で入手困難になると、いかにしても自分の手元に欲しくなる。
それが生活必需品であれば、他者を押しのけてでも手に入れようとする。
そして、さらに極限状態に置かれでもすれば、人を殺してでも己が欲求を満たすことさえあるのだ。
平和的環境におかれているときは、その禍々しいエゴはなりを潜めており、表れても上記のように些細な程度で済む。

しかし非常時の恐ろしさ、殊に戦時中のことを少しでも学んでみれば、この恐ろしさを想像するのは困難ではない。
太平洋戦争末期、沖縄戦では追い詰められた日本軍が地元住民を巻き込んだゲリラ戦を展開した。
島内いたるところに散在する自然洞に潜む間、赤子を抱えた母親はいつ子どもが泣き出すかに終始怯えた。
声や音で潜んでいることを米軍に察知されれば襲撃されてしまう。
しかし赤ん坊は泣くのが仕事のようなものだ。どうしたって泣く。
暗い中、おなかも減ればお漏らしもするだろう。
泣きだす赤ん坊を周囲は「早く黙らせろ」とせかす。
赤子のために我々が敵に殺されてもいいのか、と。
しかし母親はおろおろとあやすしかない。
そして兵は言うのである。「息を止めて殺せ!」
発狂寸前の母親は冷静さを失って子どもの口を自らふさいだ。
やがて声はやみ、同時に赤子は息をしなくなった。
人の残酷性の行き着く先は際限もない悲劇だ。
エゴは極限状態の度が増せば増すほど悲惨な情景を生み、
人の心の中に黒々とした魔物を宿してしまうものなのか。

食糧難の折はどうだ。
自らが食えるためには他人のとり分などかまっていられない。
だまし合い、押しのけあい、人を蹴落としてでも食欲を満たそうとする。
そういう光景がきっと無数にあったに違いないのだ。
火事場泥棒などは戦時中ならずとも、神戸や新潟の震災においてもあった。
人の弱みに付け込んで詐欺を働くものさえある。
嘆かわしきは人の業である。不道徳である。

無論、すべての人がそうだと言うのではない。全うな人もいる。
品性ある人間とはどういう人を言うのか。
地位や名誉や知識の有無、外見の身奇麗さに比例するものではなく、もっと内面的にみるべきだろう。
謙虚であることの意味を知り、生きることに堅実であること。
他者の思いを想像し、自己の醜さ卑しさときちんと向き合えること。
集団に与して個人攻撃などしないフェアさを持つこと。
他者を欺かぬこと。
誰と接するときでも対等であること。
そして全体を見通せること。
それを道徳的に日ごろの行動に反映できること。
人の品位というものは常にそういうものの上に成立するのだろう。
もしくはそれに向かって努力する人のもとに品格は備わるのであろう。

知識や権力、金銭を求むるよりも、至上命令として、
「精神的に自己を律する」ことがどれほど重要かを深く思うのである。

(2004.12.02  自記「エゴイズム」より)