2017年1月4日水曜日

【思索】自分の言葉で


 アーカイブス。思索雑記はたくさんあるが、殆どはお蔵入り状態で、しばらくはそれらの掘り起こしをしていきたいと思っている。
 以下の文章は自分の考え方の骨子のようなもので、あちこちに同様のことを書いているので、その一典型として。


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自分の頭で考え、自分の言葉で語る。
この大切さを唱えることはたやすい。
しかし実践となると、なかなかに難しい。

小中学生の頃、卒業文集など誰もが書いた記憶があるだろう。
この文集を紐解くと、「3年間の思い出」「楽しかった思い出」「修学旅行の思い出」などと似通った題のものが多く目につく。内容も似通っている。
あれが楽しかった、これが面白かった、全ていい経験になった等々・・・。
三年間、入学から遠足や部活、修学旅行、卒業まで。
みんな何を申しあわせているのかと思うくらい画一的だ。

年齢を経て作文する機会が減ったとしても、そういう思考のパターンは多くの場合変わらない。
人とのかかわり、物事の見方。
映画をみたり本を読んだときに、それに対する感想などを問うと顕著だ。
「面白かったよ」「感動したよ」「楽しかったよ」「ためになった」
なにが?どのように?なぜ?
問うても芳しい返答などない。

東京九段に昭和館という歴史資料館がある。
ここでは、日本の戦中戦後の人々の生活の労苦を伝える展示が数多くなされている。
その中に戦後すぐの高校生くらいの学生の作文の展示があった。
父を戦争で失い、その労苦に耐える母に寄せる思いが切々と綴られる。
文章はしっかりとしたもので、文体も美しい。
何を言わんとしているのかが明確に伝わってき、胸に響くものがあった。
戦時中の手紙、はがきなども多いが、文章のしっかりしたものが多い。
必死の思いが丁寧に綴られる。
言葉が大切にされていることをしみじみ感じた。

昨今、物事を見たり、聞いたり、あるいは触れたりするということの意義が軽んじられていやしないか。
自分の考えを自分の言葉で語るという習慣も退行しているように思われてならない。

感動する心があることは大切だ。
物事を面白く思ったり、楽しんだりする気持ちも大切だ。
だがそれだけではダメだ。

「感動」は自分の内面で咀嚼し、言語化する努力なくして自らの血肉にならない。

何がどうしてどうだから楽しかった。
どういうことでどんな風に感動した。
誰が、何が、どのように、なぜ。
 自分の内面にあることを、会話の中でもきちんと文章語にして語る癖を身につける。
そうでなければ、相手に伝えたいと思う言葉すら育ってこないではないか。

意思を疎通させる上で言語は大切なものだ。
以心伝心というものも、そういう言語化を繰り返すうちにようやく発達し機能してくるものなのではないか。

日々の繰り返しの中で、様々な叡智に触れ、すばらしい人脈を構築して行けるようにするために、世の争いの多きを考え合わせた上で、ぜひ向き合いたい。

言葉ひとつ、しっかりと、そして適切に伝えることができるというだけで、ずいぶんと解決する問題もあるだろう。
「拘る」ということではなく、あらゆる事物を学びのきっかけにするために、そして成長を常に促すために必要なことだ。
2005.01.08

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